コミュニケーションにおける「意図」に対する態度

「コミュニケーション」に関するテクニック的な本はたくさん出版されています。

 

ですが、小手先のテクニックは、レベルの高い人に対して使うとむしろ逆効果であることを踏まえると、テクニックなんかよりもっと根本的なことを押さえておく方が大事であると思います。

 

根本的なことの1つは、コミュニケーションにおける「意図」に対する態度をセットしておくことです。

 

コミュニケーションは、会話でも文章でも、2者間での「意図」が共通の認識になると、よい方向に進みます。

 

2人が同じ方向を向いて進むことができるからです。

 

逆に、「意図」に関して認識の齟齬があると上手くいきません。

 

2人が同じ方向を向いていると思っていたけど、少し先に進むとお互いに考えていたことが全く違って衝突が発生する、という場面は認識に齟齬がある場合によく見られる光景です。

 

コミュニケーションにおいて、自身が話し手側になることもあれば、聞き手側になることもあります。

 

「意図」という観点でコミュニケーションを見る際は、自分が話し手側になる場合と、聞き手側になる場合の2パターンを想定する必要があります。

 

話し手側である場合は、自分の意図が相手にちゃんと伝わっているか、を自分に問いかけながらコミュニケーションをとります。

 

相手の反応から自分の意図が伝わっていないと思えば、説明を補足したり、意図そのものの説明をしたりします。

 

相手に伝わっていない場合に、自分が何をできるかを考えることは重要です。

 

自分が意図したことが相手に伝わらないのは、相手の理解力が低いせいだ、などと相手側に原因を求めていると、自分の成長に繋げることができません。

 

次に、自分が聞き手側である場合は、話し手の意図を自分は正確に理解できているだろうか、と自分に問いかけながらコミュニケーションをとります。

 

何かが分かったと思ったら、分かったつもりにならずに、相手に自分の理解、認識が正しいか確認するステップが重要です。

 

自分に都合のよい部分を切り取って、自分に都合よく解釈して、わかったつもりになることが最も危険です。

 

人は、物事を自分の理解したいように理解します。

 

自分のレベル、自分の見えているレベルで物事を理解します。

 

話し手側が自分よりもレベルの高い人である場合、何かがわかったと思ったら、それは自分のレベルに合わせた理解であり、話し手側が意図した内容ではない可能性があります。

 

なので、安易にわかったつもりにならないこと。

 

もしかすると、自分は相手の意図を汲み取れていないかもしれない、という思慮深さが問われます。

 

自分の過去を否定していると、将来への不安や焦りが増幅する

将来に対する強い不安がある人の発言を観測する機会がありました。

 

よくよく話を聞いてみると、過去にはブラック企業で働いており、自分がやりたい仕事ができず、転職に有利な経歴も得ることができなかった、と。

 

年齢的にも30代前半なので、将来何者かになるためには、今この時がラストチャンスだから、自分がやりたい仕事に就くことを重要視したい、と。

 

本人にとって、過去経験したことは、受け入れがたいものであるようでした。

 

自分は他の人よりもやりたい仕事に対する知識や理解、熱意ややる気もあるのに、他の人がその仕事にアサインされて、自分は別の仕事にアサインされる。

 

アサインされた別の仕事は、例えば転職活動をしている時に「こんな仕事してました」と他者に語った時に、見栄えのする仕事ではない。

 

所属していた企業も、パワハラまがいの発言をしてくる高圧的な上司と、新人を育てる気がない完全放置プレイの職場環境などなど。

 

本人にとっては、自分の人生における汚点という認識なのだろうと思います。

 

心のトラウマや傷であり、周りの環境に圧倒されて自分の人生を生きることができなかった暗黒時代の思い出という感じです。

 

で、これらの過去によって、自分の人生という時間を浪費してしまった。

 

それでも、自分にはやりたい仕事がある。

 

そのためには、今時間を無駄にすることはできない。

 

だから、目の前の仕事が自分のやりたい仕事かどうか、自分の将来にとって有益であるかどうかを素早く見極めて、方向性が違うならすぐにでも他の仕事に移りたい。

 

会社が自分の考えを認めてくれないなら、転職も辞さない。

 

ざっと振り返るとこんな感じでした。

 

 

で、これらの話を後からぼんやりと振り返っていたのですが、どうも自分が過去経験したことに対する態度と、将来への感情というのはリンクしていそうだな、という気がしたので記事にしてみた次第です。

 

結論は、タイトルの通りですが、自分の過去を否定している度合いが強ければ強いほど、将来に対する不安が大きくなる、ということがいえそうです。

 

自分の過去を否定している人の発言を観察すると、根っこにあるのは「自分は○○を失った」という喪失感覚なのだろうと思います。

 

他の人から評価される経歴を得る機会を失った。

やりたい仕事につく機会を失った。

スキルを身につける機会を失った。

 

この喪失感覚から、色々な感情が派生してきます。

 

自分は会社などの環境から大事にされない存在であるという自己肯定感の低下。

自分はいつも選択に失敗する、また失敗するのではないかという選択と決断に対する不安。

環境から虐げられてきたという被害者意識。

○○を失ったという喪失感覚を穴埋めするための欠乏マインド(ようするに"くれくれ君"になるということ)。

自分はこんなに大変な過去を経験してきた被害者でかわいそうな立場だから、他人は自分に優しくすべきだし、自分の考えを尊重すべき、という自己愛の肥大と甘え、依存心。

周りが自分の都合を考えてくれないなら、自分も他人の都合を考える必要はない、という自己中止的なわがままマインドと、自分の都合を優先するためなら他人に迷惑をかけてもよいという倫理観の低下。

無駄にした時間を取り戻すために早く結果を出したいという焦燥感、焦り、いらだち。

 

自分の過去を否定したところからくる上に書いたような感情、精神状態では、人生が好転することはないだろうと思います。

 

ではどうすればいいか。

 

過去に起きた出来事は変えることはできませんが、過去の出来事に対する解釈、捉え方、考え方は変えることができると思います。

 

過去の出来事を自分の人生における汚点として考え否定して認めないのではなくて、その出来事から自分は何を得たのか、何を学んだのかを考えてみる。

 

これはやってみると分かりますが、人によってはめちゃくちゃにしんどいと思います。

 

何しろ、今まで否定してきた過去から得たもの、学んだものを考えるという作業ですから、今までの物事の見方とは180度反対のことをする、ということになります。

 

過去に味わった喪失感、欠乏感、他人や環境に対する不信感、挫折、絶望、失望を今の自分が見方を変えることによって、過去の出来事から得たもの、学んだことを考えて、喪失感を埋めてあげることで過去の自分を癒してあげる試み、といえるかもしれません。

 

過去を無駄な時間にして現在を欠乏感に苛まれながら過ごすのか、過去を有益な時間にして、あの出来事があったから現在の自分があるといえる見方をして現在の自分の満たしてあげるのか。

 

それは現在の自分の物事の捉え方次第です。

 

過去を否定している人と肯定している人の過去・現在・未来に対する考え方の違いを書いてみました。

 

〇過去を否定している人の過去・現在・未来

過去の否定→現在の欠乏状態→未来の理想像(こうならないと幸せではない)

 

〇過去を肯定している人の過去・現在・未来

過去の肯定→現在の満たされている状態(この時点で幸せを感じられる)→未来の理想像(現在も幸せだけど、未来こうなっていたらもっと幸せ)

 

過去を否定している人は、今不幸せなので未来の理想像に到達しない限りずっと不幸せな状態が継続することになります。

だから、何としてでもはやく未来の理想像にたどり着こうとします。

 

一方で、過去を肯定している人は、過去を肯定することで過去から学んで得ているものがあるので、現在の欠乏状態はなく幸せを感じることができている状態です。今の幸せという土台があるので、焦りや不安は少なく、現在の状態を土台としてさらに未来の理想像に向けて一歩一歩着実に進むことができます。現在の欠乏状態がないので、焦りやいらだちなども非常にすくなくなります。

 

未来をよくしたいのなら、未来だけを見るのではなくて、過去と向き合うことが必要になります。

 

過去は自分の土台です。

 

過去と向き合うことで、自分の考え方に原因があったことに気が付くことができます。

 

考え方が変わることで現在の選択が変わり、未来が変わります。

 

過去を否定して向き合うことを拒否していると、自分の考え方を改めることはなくなり、現在の選択も変わらないので、未来も変わりません。

 

未来を変えるためには過去と向き合うこと。

 

そして過去から学んだことを現在の自分の糧とすること。

 

 

組織の中でモヤモヤしている人は「だかぼく」公式サイトを見てほしい

必要に迫られて、今まで関わったことのない組織開発について情報を集めています。

 

そんな中で、「だから僕たちは、組織を変えていける」の公式サイトにたどり着きました。

 

このサイトは、書籍「だから僕たちは、組織を変えていける」のサイトです。

 

公式サイトでは、書籍内にあるイラストや図表が閲覧できます。

 

dakaboku.jp

 

講演資料も閲覧できます。

dakaboku.jp

 

テーマ毎の講演資料もありますが、ワークショップ型講演の資料(261Pあります)を一読すると、全体像がつかみやすいと思います。

 

サイト内で閲覧できる情報だけでも、断片的な組織論に関する情報が体系的に整理されていて、理解が深まりました。

 

組織の中でモヤモヤしていて、何か変えたいと思っているけど、何から手をつけていいのか分からないという方にはおすすめです。

 

不満を抱く人の心理を「ハンバーグを食べること」で説明してみる

不満を抱く人は、他人に期待していて、自分が他人に期待していることを他人がやってくれないから、不満を抱く。

 

不満を抱かない人は、他人に期待せずに、自分でやればいい、と思っているから不満を抱きにくい。

 

これを、「ハンバーグを食べる」に置き換えてみると。

 

不満を抱く人の考え方は、「ハンバーグ食べたいなー」と思った時に、食材を他人が買ってきてくれて、ハンバーグをつくる面倒な工程も他人がやってくれて、お皿への盛り付けもやってくれて、あわよくばナイフとフォークで一口サイズに切り分けて自分の口まで運んできてくれることを期待します。

 

冷静に考えてみればわかることですが、そんな状況があるはずもないので、不満を抱く人はずっと不満を抱えることになります。

 

他人に期待して、他人のせいにして、他人に依存していく人生になり、主体性や自分自身の成長から最も離れたところで生きていく人生になります。

 

 

一方で、不満を抱きにくい人。

 

自分が「ハンバーグ食べたいなー」と思ったら、自分でハンバーグのつくり方を調べます。

 

自宅に必要な食材がなければ自分でスーパーに食材を買いに行きます。

 

買ってきた食材は、自分で調理します。

 

ハンバーグは、玉ねぎみじん切りにしたり、手でこねたりするので面倒くさいです。

 

それでも、自分がハンバーグを食べたいので、調理は自分でします。

 

もちろん、盛り付けも自分でします。

 

料理が完成したら、自分でナイフとフォークで切り分けて食べます。

 

 

「自分でやる人」は、うまくいかない、わからない、というストレスが一時的にかかる場面はありますが、他人に対して不満を抱く場面は少ないように思われます。

 

自分でやること、と思っていれば他人への不満は限りなく少なくなってくる、ということがいえそうです。

 

見方をかえてみると、「XXが○○してくれない」という他人への不満が出てきたら、「自分でやる」方向にたおしてみると、結果的に自分の成長につながることが多いかもしれません。

 

自分でやるとなったら、不明点があれば自分で調べたり、本を読んだりして情報や知識をインプットする必要があります。

 

その際には、取得した情報が正しい情報なのか、鵜呑みにせずに自分の頭で考えて、実際に検証して確認して取捨選択をしていく必要があります。

 

情報の取捨選択が終わったら、次に結果がでるまで実行する必要があります。当然うまくいかないことが出てくるので、解決方法を調べたり、考えたり、試行錯誤をしながら実現に向けて行動する必要があります。すぐに結果がでないこともあるので、結果がでるまで行動を継続する必要があります。行動を継続するためには、モチベーションを自分で管理する必要がありますが、自分のモチベーションは他人が管理してくれるものではないので、自分のモチベーションや、行動を継続する方法、習慣化する方法などを学んでいく必要もでてきます。

 

これらの過程は面倒くさいといえば面倒くさいです。玉ねぎをみじん切りにしたり、ハンバーグの種をこねたりする工程くらいに面倒くさいです。

 

ですが、自身の成長という観点でみると、面倒くさいことを他人に丸投げしている人は成長せず、面倒くさいことを他人に丸投げせずに自分で主体的に取り組んでいる人は結果的に実現するまでの過程で多くのことを身に着けて成長していく、ということがいえるように思います。

 

 

神田神社 夏越大祓式(なごしおおはらえしき)に参加

昨日は、神田神社神田明神)の夏越大祓式(なごしおおはらえしき)に参加してきました。

 

昨年2月頃から神社仏閣巡りを始めて、はじめて神社の神事参加です。

 

神社の茅の輪もくぐることができ、2023年前半を無事に締めくくることができたと思います。

 

こういった節目の行事に参加して思うのは、日々過ごす中で区切りを意識して過ごすことのメリットは大きい、ということです。

 

普段仕事で忙しいと、毎日同じような1日の繰り返しになりがちですが、行事に参加して「区切りの意識」を持つことで、次の日を気持ちを新たに迎えることができます。

 

年末年始なら周りも自分も節目なので、区切りの意識を持つことは容易ですが、それ以外の時でも神社の行事に参加したり、二十四節気など日本の暦を意識することが、区切りの意識をもつ機会を増やすこと、日々を新たに迎える機会を増やすことにつながり、停滞やマンネリから抜け出すきっかけになるような気がします。

 

情報を取捨選択する際の判断基準

今の世の中、情報が大量に存在するので、不要な情報を取り除き、必要な情報を取り入れる際の判断基準は、各々が自分で持っておく必要があるように思います。

 

特に、生き方・考え方などの個人の性質が大きく影響するものについては、成果や肩書だけを見て、自分と全く別タイプの人間の真似事をしようとすると、自分ではない誰かを演じることになってしまうので注意が必要です。

 

自分自身のことを振り返ってみると、次のような基準に沿って判断を行っているような気がします。

 

①発信者が自分と同じタイプであるかどうか(内向型寄りかどうか)

自分自身が、内向型タイプなので、基本的には、同じ内向型タイプの人の考え方、生き方から得るところが多いです。

 

逆に、外向型タイプの人間が発信している情報には、「自分とは全くタイプが異なる人間だ」ということを念頭におきつつ、情報を得るようにしています。

 

②その人自身の経験から得た知見かどうか

どこかで聞いたような内容をそのまま語っているかどうかを見ます。

 

他でも確認できる内容であれば、その人から情報を得る必要性は下がります。

 

その人自身が自分の経験から得た知見を、自分なりの観点、切り口で、自分の言葉で語っているかどうかを見ます。

 

あるキーワードを検索した時に、検索結果に表示される上から10個くらいをタブで開いておいて、1つずつ中身を見ていった時に、「このサイトもこのサイトも同じようなことを同じような形で記載しているな」という感想が出てきますが、その中でもその人独自の観点、工夫などがされているサイトは、他のページでも同様に独自の観点、切り口で語られているのではないか、という推測がたつので、要チェックとなります。

 

③小手先のテクニックではなく本質的、普遍的な内容かどうか

テクニック論を語った本は多いのですが、個別のテクニックを追いかけることにはあまり意味がないように思います。

 

まず、動機が不純だと、一時は結果がでたとしても長期的にはマイナスの結果になる、ということがあります。

 

テクニックを用いて、自分に有利に進めたい、という利己心があると、相手にはバレバレですし、レベルの高い人間ほど小手先のテクニックを見破って、相手にしないであろうと思われます。

 

また、自分にぴったりのやり方は最終的には自分で編み出すしかない、と思います。

 

なので、どこかの本に書いてあるやり方をそのまま真似るのではなくて、まず自分の性質などをよく理解した上で、その自分にあったやり方を試行錯誤しながら自分で編み出す、という方が個人的には好みです。

 

自分ではないどこかの誰かがうまくいった方法が自分にも当てはまる確率は一体どれくらいなのかと思うので、自分で編み出した方が、遠回りのように見えますが結果的には近道になると思います。

 

テクニック系をほぼ除外するとなると、本質的、普遍的な内容に目が向くようになりますが、具体的にいうと古典の類になります。

 

土台の部分がしっかりしていないと、その上にいくら知識を積みあげようとも不安定なものになるので、古典を学んで土台をしっかりと作っていきたいものです。

 

④自分の考え方と一部でも被る内容があるかどうか

自分の考えをもたないで、情報を鵜呑みにするのは百害あって一利なし、です。

 

鵜呑みすると、情報を妄信しがちになり、被害妄想につながりやすくなります。

 

また、自分で考える力もつかないので、読んでいるというよりは、ただ見ているだけの状態になり、そこに自分なりの洞察などが生まれる余地がなくなります。

 

なので、情報にあたる際には、まず自分なりの考え方をもってから情報にあたること。

 

自分なりの考え方をもって情報にあたると、見ていった情報の中に自分と同じ考え方と被るような内容を記載している本を発見することがあります。

 

会ったことも、話したこともない人と、価値観を共有できている感覚です。

 

この価値観を共有できる相手は、取得情報リストとして優先順位が高くなります。

 

ただ、人間には自分の考え方を強化するような情報を集めたがる、という性質もあるので、自分の考え方と反対の立場をもっている人の意見も考慮して、物事を考えていく必要はあります。

 

本日は、ここまでです。

 

仕事はそもそも「面倒くさいものである」と考えると余計なエネルギーを消費せずに済む

仕事を簡単な仕事と、面倒な仕事にわけた時に、後者に取り掛かる時は、結構な頻度で「面倒くさいな」と頭の中で考えたり、口に出してしまったりしがちです。

 

ただ、この「面倒くさい」という感情は、そのままで放置しておくと、仕事に取り掛かるエネルギーを知らず知らずのうちに、奪っていくので管理していく必要があります。

 

仕事に取り掛かって、進めて完了させるには、色々と確認すること、調べること、考えることなど一定のエネルギーを使います。

 

仮に、1日の内に使える仕事に使うエネルギーが100としてみます。

 

この100エネルギーをより効率的に使うことができれば、仕事はどんどん前に進みますし、無駄なことに使っていたり、消耗してしまったりすれば、その分仕事に使うエネルギーが枯渇していき、結果として仕事を前に進めることができなくなります。

 

で、「面倒くさい」というのは、エネルギーを取り掛かる前から、自分で自分のエネルギーを消耗させる呪いの言葉です。

 

その仕事が実際に面倒くさいのか面倒くさくないのか、ではなく、どんな仕事でも面倒くさい、と言って取り掛かってしまうと本当に面倒くさい仕事になるような気がします。

 

いかに、自分で自分のエネルギーを消耗させないか、が重要です。

 

そのためには、考え方を変えて、全ての仕事がそもそも面倒くさいものであると考えてみてはどうでしょうか。

 

全ての仕事の成り立ちから考えると、全部自分でやるのが面倒くさいから、その面倒くさい部分を切り出して、外部に業務として委託している部分があるので、全ての仕事はそもそもが面倒くさいものであるといえます。

 

そもそも面倒くさいものを、あえてわざわざ改めて面倒くさい、と考えたり、言葉にして自分のエネルギーを消耗させることはないので、無心で淡々と取り組むようにしたいものです。

 

その方が結果としては早く終わります。

 

面倒くさい、という考え方は、毎度毎度繰り返していると習慣のようになってしまって、何でもかんでも面倒くさい、と考える人間になってしまい、結果として「何でも面倒くさいと考える面倒くさい人」になってしまうので、面倒くささに飲み込まれずに仕事に取り掛かっていきたいものです。